皇の時代にわたしを生きる実験(第1話)はじまりの記録

共鳴小説
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冬が明けるころ、三人で過ごしていた時間は、静かにそれぞれの場所へひらいていった。

アイの農場は、もう以前のように「ふらりと遊びに行ける畑」ではなくなっていた。アイが父と二人で続けてきた自然農は、研究者たちと組む実験場へと姿を変え、土や微生物や作物の循環を、感覚だけでなく構造としても検証する場所になっていた。気軽に手伝いには行けなくなったけれど、それは少し寂しい変化というより、それぞれが自分の持ち場へ進んだ、自然な流れのように思えた。

ユウもまた、波動設計士としての仕事が口コミで広がり、予約はいつも先まで埋まっている。人の声の奥にある震えを拾い、その人自身もまだ言葉にできていない本音を、そっとすくい上げていく。ユウの仕事は占いというより、魂の翻訳のようだった。感覚を読み、言葉にし、その人の人生に戻していく。以前より会える時間は減ったけれど、不思議と遠くなった感じはしなかった。二人がそれぞれの魂職の現場に立ち始めたのだと思った。

そしてミカは、一人になった。けれどそれは、置いていかれたような孤独ではなかった。いよいよ自分の番がきたのだと感じていた。

何かを始めなければ、と思っていた。
けれど何を始めればいいのかは、まだわからなかった。
だからミカは、とりあえず手紙を書くことにした。
三人で泊まった湖のペンションのオーナー夫妻へ。
交わした会話と二人が奏でてくれた歌のお礼を。
あの場所で、自分の中の何かが確かにほどけたことを。

『ひびきの輪』で出会った人たちへ。
あの日、あの場で過ごした時間が、いまも静かに自分の中で生きていることを。

そして、小山田陽子さんへ。
あの日からずっと胸の奥に残っていた感動と、ぜひまたお会いしたいということを、できるだけまっすぐな言葉で綴った。
返事は、思っていたよりずっと早く届いた。横浜で一人暮らしをしている陽子さんからの便箋には、美しくやわらかな字でこう書かれていた。
「いつでも遊びにいらっしゃい。しばらく泊まっていってもいいのよ」

ミカは、その手紙を読み終えたその日のうちに、チケットを取った。考えるより先に動いていた。こういう時はたいていうまくいく。頭で考えて決めたことより、身体が先に決めてしまったことの方が、あとから振り返ると、ちゃんと道になっている。

横浜の冬は、思っていたよりも暖かった。
陽子さんの部屋は、陽の光がよく入り、古い木の家具と植物が静かに呼吸しているような空間だった。大きな机には書きかけの原稿が積まれ、台所には使い込まれた土鍋と、丁寧に拭かれたグラスが並んでいた。
そこで暮らす陽子さんの姿は、どこを切り取っても自然だった。
朝起きて、お湯を沸かし、植物に水をやる。
気が向いたら原稿を書き、眠ければ昼寝をする。
お腹が空いたら食べ、会いたい人がいたら会いに行く。
ほとんど予定は入れず、けれど怠けているわけでもない。
静かで、軽やかで、滞りがなかった。
「自由に暮らしている人」というより、
自分が語ってきた理論を、そのまま生活で実践している人の姿だった。

ミカは一週間、陽子さんの部屋でその暮らしを眺めていた。
言葉よりも、そのリズムそのものが、ずっと深く身体に入ってきた。

ある日、紅茶を飲みながら、ミカはぽつりと聞いた。
「陽子さんは、どうしてそんなに軽やかに生きられるんですか」
陽子さんは少し笑って、
「軽やか、というよりね」と言ってカップを置いた。
「なんでも実験だと思ってるのよ」
ミカはその言葉に、思わず顔を上げた。
「実験、ですか?」
「そう。うまくいくかどうかじゃないの。やってみたら、どう感じるか。心地いいか、重たいか。続けたいか、もう違うか。ただそれを見てるだけ。実験だと思えば、失敗じゃなくてデータになるでしょう」窓の外で、冬の光が白く反射していた。

実験なら失敗は大切なデータになる。そうか、とミカは思った。私はずっと、正解を探していたのかもしれない。

どの道が合っているか。何を選べば間違えないか。どうすれば「これでよかった」と思えるか。でも、そうじゃないのかもしれない。
選んでみて、感じる。
やってみて、知る。
違ったら、やめる。
しっくりきたら、続ける。
それだけでいいのだ。

横浜を発つ朝だった。帰り支度をしていたミカに、陽子さんは一冊の本を差し出した。少し日に焼けた、やわらかな白の表紙。背表紙には、シルバーと水色の文字で題名が箔押しされている。手に取ると、何度も読み返されてきた本特有の、紙のやわらかな癖が指先に伝わった。

「これ、持っていきなさい」

ミカが表紙をなぞるように見つめていると、陽子さんは穏やかに笑った。

「もともとは、夫がずっと考えていたことなの。私はそれをそばで聞いて、見て、受け取って、いなくなってからようやく、私なりに一冊にまとめたの。」

陽子さんは、ゆっくりと続けた。

「この理論はね、生きるヒントじゃなくて、生き方そのもの。理論の検証はね、自立している人だけができるのよ」

ミカは、胸の奥がすうっと静かになるのを感じながら、その本を受け取った。陽子の言葉は、本そのものよりも重く、まっすぐミカの中に残った。

横浜駅へ向かう電車の窓から、やわらかな冬の光が街の屋根を滑っていく。本を膝にのせたまま、ミカはぼんやりと流れていく景色を見ていた。

自立する、というのは、誰にも頼らず一人で生きることではなく、自分の人生を、自分で引き受けることなのかもしれない。

何を選び、何を核にして、何を手放すのか。正しい答えを探して誰かに委ねるのではなく、選んだあとの感触まで、自分で見届けること。そうやって初めて、理論は知識ではなく、生き方になる。

ミカは窓の外を流れていく街並みを見つめながら、はっきりと思った。私はこれから、自分の人生を使って確かめていくのだ。教わったことを信じるのではなく、自分で生きて、自分で知るために。

横浜を出る前に、ミカは文具店に立ち寄ることにした。

深い紺色の布張りの五年日記を手に取った。五年日記は、同じ日の自分を少しずつ見比べられるようになっている。今の自分、来年の自分、もっと先のまだ知らない自分。時間を重ねながら、変化の軌跡を見つけていくためのつくりだった。

「いいかもしれない」とミカは呟いた。毎日の小さすぎて見えずらい変化も記録して並べてみれば、どこでつまずき、何に揺れ、何を手放し、何を育ててきたのかが、きっと見えてくる。

新幹線の座席に腰を下ろし、ミカは買ったばかりの日記をひらいた。日々を実験として見つめたら、きっと今までとは違う景色が見えてくる。

発車ベルが鳴り、車窓の向こうでホームがゆっくりと後ろへ流れていく。

これは、わたしを生きるための、観察記録だ。

ミカはノートの最初のページに、ためらいなく書いた。

——わたしを生きる実験。

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