数日後、ミカと蒼は駅前のカフェで顔を合わせた。コーヒーの香りが漂う店内は、昼下がりの緩やかな空気に包まれている。
「久しぶりですね」
蒼は少し照れくさそうに笑った。前より、どこか肩の力が抜けているように見える。
「うん、元気そうで良かった」
近況を話すうちに、職場の話になった。
「ミカさんが辞めてから、職場の空気、なんか重くなったんですよね」蒼は苦笑した。
「ミカさんって、空気清浄機みたいだったのかもって思います」
「何それ」ミカは声を出して笑った。
「いや、本当に。いつもピリピリしてるんですよ、ミカさんがいなくなって、改めて気づきました」
「私がいた頃もピリついてる時、まあまぁあったよ」
きっと、何も変わっていないんだろうな。ミカはそう思ったが、それ以上は何も言わないことにした。
仕事の話も一段落した。ミカは今も定職には就いておらず、蒼から頼まれる在宅の仕事は、ちょうどいい臨時収入になっている。
「いつも急にお願いしてすみません。頼れる人がいると、それだけで全然違います」
「こちらこそ助かってます。まだのんびりしてる身だから」
カップの中で、コーヒーが小さく湯気を立てていた。ひと息ついたところで、ミカは切り出した。
「あのね、蒼くんに考えてほしいことがあって」
「はい」
「この間話した尚子さん。お菓子作りが苦手みたいで。蒼くんのケーキ、本当に美味しかったから、尚子さんのお菓子の先生になってもらえたらって思って」
蒼は少し驚いた顔をした。
「僕が、ですか? ……あれから休みの日、たまにお菓子は作るんですけど」
「そうなんだ!じゃあ、尚子さんのところで作るのはどう?」
ミカは目を輝かせたが、蒼は少し考え込んだ。
「でも……尚子さんのお家まで通うとなると、道具や材料を運んだり、毎回時間を合わせるのも、交通費もかかるし、正直ちょっと難しいかもしれません」
「うーん、確かに」
ミカも少し考え込む。二人の間に、少しの沈黙が流れた。窓の外を、自転車が一台通り過ぎていく。
「あ」
不意にミカが声を上げた。
「動画、撮ってみるのはどう?お菓子作ってるところを撮影して、YouTubeにアップするの。それを尚子さんに見てもらえば、通えなくても、何度でも見返せるし」
ミカは思わず身を乗り出した。
蒼は急に自信なさげな顔になった。
「僕、専門的に勉強したわけでもないし、人に教えるほどの腕前でもないし、それに、YouTuberとか、正直ちょっと苦手で。自分でもけっこう見るくせに、なんかこう、恥ずかしいというか」
「無理にとは言わないよ。蒼くんが気が乗らないなら」
蒼はしばらく黙って、コーヒーカップを見つめていた。
沈黙が続く。ミカも急かさず、ただ待った。
「……まぁ、考えてみたら」ぽつりと言葉が続く。
「せっかく作ったお菓子も、食べたらなくなっちゃうじゃないですか。形に残らないのが、ちょっと寂しいなって思うことがあって」
蒼は一度言葉を止め、自分の手元に視線を落とした。
「だったら、記録として残しておくのも、悪くないのかもしれません」
自分の言葉に、少し驚いたような顔をした。
「……やってみようかな」
小さくつぶやいたその声には、迷いよりも、どこか前向きな響きがあった。
ミカは静かに微笑んで、うなずいた。
「うん!私が食べて、今までで一番おいしいって思ったんだから。少なくとも私には蒼くんの作るお菓子は特別に感じるよ。自信持ってほしいと思う」
蒼は少し照れたように笑った。
「そう言われると、なんか変な感じですね」
「なんで?」
「自分では普通のことだから」
その言葉に、ミカは頷いた。
「そういうものなのかもね」
自分にとっては当たり前にできること。
人から見れば特別なのに、自分では「こんなの大したことない」と思っていること。
もしかしたら、それこそが「得意」というものなのかもしれない。
ミカはふと、陽子の言葉を思い出した。
――自分の中にあるものを、惜しみなく使っていけばいいのよ。
「自分の中にあるものを、惜しみなく使うが、得意ってことなのよ」
「なんすか、それ? ちょっと意味がわからないですけど」
蒼は首をかしげながら笑った。それでも、その言葉のどこかが、少しだけ胸に残ったような顔をしていた。
「尚子さんがお菓子作り苦手っていうことなら、初心者でも作りやすいものがいいですよね、材料も特別なものじゃなくて、スーパーで買えるものにして」
「うん」
「失敗しやすいポイントも、ちゃんと説明して」
蒼は話しているうちに、どんどん表情が明るくなっていった。
「蒼くん、なんか楽しそうだね」
ミカが言うと、蒼は顔を上げた。
「え?」
一瞬きょとんとして、それから自分の顔に触れる。
「そうかもしれない」
小さく笑った。
「なんか、こういうこと考えるの久しぶりかも……せっかくなら、ちゃんとやってみたいです」
仕事のためでもない。誰かに評価されるためでもない。
ただ、自分が好きなことをどうしたら誰かに届けられるか。
そんなことを考えている蒼の顔は、以前職場で見ていたものとは少し違っていた。
「最初はチーズケーキにしようよ」
ミカが言った。
「私が一番おいしいって思ったやつ」
「ああ……あれですか」
蒼が笑う。
「あれ、じつは混ぜるだけでめっちゃ簡単なんですよね」
「そうなの?プロのケーキみたいだったよ」
「簡単すぎるのミカさんにバレちゃうなぁ」
二人は顔を見合わせて笑った。
その日の帰り道。駅で別れる前に、蒼が言った。
「ミカさん」
「ん?」
「尚子さんに伝えておいてください。今度、動画撮りますって」
「うん。すごく喜ぶと思う」
蒼は少し考えてから、付け加えた。
「それと……もしよかったら、ミカさんにも見てもらっていいですか」
「もちろん!楽しみにしてる!! きっと自然さんが応援してくれるよ。」
ミカは笑った。
改札へ向かう蒼の背中を見送りながら、ミカは思った。
またひとつ、何かが始まった。
尚子が「お菓子を教えてほしい」と言ったこと。
自分が蒼を思い出したこと。
蒼から偶然のように連絡が来たこと。
そして今、蒼自身が「やってみよう」と思ったこと。
ひとつひとつは、小さな出来事だ。けれど、それらが重なっていくと、思いもしなかった道が見えてくる。数日前まで、想像もしていなかったように。
これから何が起こっていくのかは、誰にも分からない。
けれど、今までとは違う景色が、少しずつ見え始めている。
その予感だけは、確かだった。

