皇の時代にわたしを生きる実験(第10話)小さな「好き」が、動き出す

共鳴小説
スポンサーリンク

数日後、ミカと蒼は駅前のカフェで顔を合わせた。コーヒーの香りが漂う店内は、昼下がりの緩やかな空気に包まれている。

「久しぶりですね」

蒼は少し照れくさそうに笑った。前より、どこか肩の力が抜けているように見える。

「うん、元気そうで良かった」

近況を話すうちに、職場の話になった。

「ミカさんが辞めてから、職場の空気、なんか重くなったんですよね」蒼は苦笑した。

「ミカさんって、空気清浄機みたいだったのかもって思います」

「何それ」ミカは声を出して笑った。

「いや、本当に。いつもピリピリしてるんですよ、ミカさんがいなくなって、改めて気づきました」

「私がいた頃もピリついてる時、まあまぁあったよ」

きっと、何も変わっていないんだろうな。ミカはそう思ったが、それ以上は何も言わないことにした。

仕事の話も一段落した。ミカは今も定職には就いておらず、蒼から頼まれる在宅の仕事は、ちょうどいい臨時収入になっている。

「いつも急にお願いしてすみません。頼れる人がいると、それだけで全然違います」

「こちらこそ助かってます。まだのんびりしてる身だから」

カップの中で、コーヒーが小さく湯気を立てていた。ひと息ついたところで、ミカは切り出した。

「あのね、蒼くんに考えてほしいことがあって」

「はい」

「この間話した尚子さん。お菓子作りが苦手みたいで。蒼くんのケーキ、本当に美味しかったから、尚子さんのお菓子の先生になってもらえたらって思って」

蒼は少し驚いた顔をした。

「僕が、ですか? ……あれから休みの日、たまにお菓子は作るんですけど」

「そうなんだ!じゃあ、尚子さんのところで作るのはどう?」

ミカは目を輝かせたが、蒼は少し考え込んだ。

「でも……尚子さんのお家まで通うとなると、道具や材料を運んだり、毎回時間を合わせるのも、交通費もかかるし、正直ちょっと難しいかもしれません」

「うーん、確かに」

ミカも少し考え込む。二人の間に、少しの沈黙が流れた。窓の外を、自転車が一台通り過ぎていく。

「あ」

不意にミカが声を上げた。

「動画、撮ってみるのはどう?お菓子作ってるところを撮影して、YouTubeにアップするの。それを尚子さんに見てもらえば、通えなくても、何度でも見返せるし」

ミカは思わず身を乗り出した。

蒼は急に自信なさげな顔になった。

「僕、専門的に勉強したわけでもないし、人に教えるほどの腕前でもないし、それに、YouTuberとか、正直ちょっと苦手で。自分でもけっこう見るくせに、なんかこう、恥ずかしいというか」

「無理にとは言わないよ。蒼くんが気が乗らないなら」

蒼はしばらく黙って、コーヒーカップを見つめていた。
沈黙が続く。ミカも急かさず、ただ待った。

「……まぁ、考えてみたら」ぽつりと言葉が続く。

「せっかく作ったお菓子も、食べたらなくなっちゃうじゃないですか。形に残らないのが、ちょっと寂しいなって思うことがあって」

蒼は一度言葉を止め、自分の手元に視線を落とした。

「だったら、記録として残しておくのも、悪くないのかもしれません」

自分の言葉に、少し驚いたような顔をした。
「……やってみようかな」
小さくつぶやいたその声には、迷いよりも、どこか前向きな響きがあった。

ミカは静かに微笑んで、うなずいた。

「うん!私が食べて、今までで一番おいしいって思ったんだから。少なくとも私には蒼くんの作るお菓子は特別に感じるよ。自信持ってほしいと思う」

蒼は少し照れたように笑った。

「そう言われると、なんか変な感じですね」
「なんで?」
「自分では普通のことだから」
その言葉に、ミカは頷いた。
「そういうものなのかもね」

自分にとっては当たり前にできること。
人から見れば特別なのに、自分では「こんなの大したことない」と思っていること。
もしかしたら、それこそが「得意」というものなのかもしれない。

ミカはふと、陽子の言葉を思い出した。
――自分の中にあるものを、惜しみなく使っていけばいいのよ。

「自分の中にあるものを、惜しみなく使うが、得意ってことなのよ」

「なんすか、それ? ちょっと意味がわからないですけど」
蒼は首をかしげながら笑った。それでも、その言葉のどこかが、少しだけ胸に残ったような顔をしていた。

「尚子さんがお菓子作り苦手っていうことなら、初心者でも作りやすいものがいいですよね、材料も特別なものじゃなくて、スーパーで買えるものにして」

「うん」

「失敗しやすいポイントも、ちゃんと説明して」

蒼は話しているうちに、どんどん表情が明るくなっていった。

「蒼くん、なんか楽しそうだね」

ミカが言うと、蒼は顔を上げた。

「え?」
一瞬きょとんとして、それから自分の顔に触れる。
「そうかもしれない」
小さく笑った。
「なんか、こういうこと考えるの久しぶりかも……せっかくなら、ちゃんとやってみたいです」

仕事のためでもない。誰かに評価されるためでもない。
ただ、自分が好きなことをどうしたら誰かに届けられるか。
そんなことを考えている蒼の顔は、以前職場で見ていたものとは少し違っていた。

「最初はチーズケーキにしようよ」
ミカが言った。

「私が一番おいしいって思ったやつ」

「ああ……あれですか」

蒼が笑う。
「あれ、じつは混ぜるだけでめっちゃ簡単なんですよね」

「そうなの?プロのケーキみたいだったよ」

「簡単すぎるのミカさんにバレちゃうなぁ」
二人は顔を見合わせて笑った。

その日の帰り道。駅で別れる前に、蒼が言った。
「ミカさん」
「ん?」
「尚子さんに伝えておいてください。今度、動画撮りますって」
「うん。すごく喜ぶと思う」
蒼は少し考えてから、付け加えた。
「それと……もしよかったら、ミカさんにも見てもらっていいですか」

「もちろん!楽しみにしてる!! きっと自然さんが応援してくれるよ。」
ミカは笑った。

改札へ向かう蒼の背中を見送りながら、ミカは思った。

またひとつ、何かが始まった。

尚子が「お菓子を教えてほしい」と言ったこと。
自分が蒼を思い出したこと。
蒼から偶然のように連絡が来たこと。
そして今、蒼自身が「やってみよう」と思ったこと。
ひとつひとつは、小さな出来事だ。けれど、それらが重なっていくと、思いもしなかった道が見えてくる。数日前まで、想像もしていなかったように。

これから何が起こっていくのかは、誰にも分からない。
けれど、今までとは違う景色が、少しずつ見え始めている。
その予感だけは、確かだった。

タイトルとURLをコピーしました