蒼はその日の帰り道、本屋に立ち寄った。YouTubeの入門書を棚から一冊取り出して、ぱらぱらとページをめくる。
「……なるほど」
専門用語が並んでいるページは、正直よく分からない。
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知らないことばかりで、ページをめくるたびに小さな高揚があった。
やりながら、調べながら、作っていけばいい。
そう思えたことが、蒼自身にとっては小さな変化だった。
そして、もうひとつ。しばらく手に取っていなかった連絡先から、実家の番号を呼び出した。
自分がお菓子を作るようになった原点。
子どもの頃、母が台所に立っていた姿。
焼き上がったお菓子の甘い匂い。
そういえば、母は昔からレシピをノートに書き残していた。
あのノート、まだあるだろうか。
蒼は少し迷ってから、母に電話をかけた。
「久しぶり。母さんが昔使ってたお菓子のレシピノート、まだ持ってる? もしあるなら、ちょっと見せてもらいたいんだけど」
電話の向こうで、母の声が一瞬止まり、それからいつもより高くなった。
「あら、珍しい! あるわよ、もちろん。せっかくだから、週末泊まっていきなさいよ。ご飯作るから」
弾んだ声に、蒼は少し面食らった。特別なことは何も言っていないつもりだった。
しばらく足が遠のいていた実家だった。理由は自分でもうまく説明できない。正月に顔を出す程度で、あまり近づかないようにしていた。母からは時々連絡がきていたいたけれど、顔を合わせることは減っていた。
土曜の午後、駅からの坂道を上ると、実家の庭木は記憶より少し大きくなっていた。呼び鈴を押すより先に、玄関の戸が開いた。
「お帰り。大きくなって……って、もういい歳ね」
母は笑いながら、蒼の肩のあたりをぽんと叩いた。父はゴルフで留守だという。
子どもの頃からそうだった。父は昔から家にいないことが多かった。仕事だったり、ゴルフだったり。蒼にとっては一人でいたり、あるいは母と二人だけ過ごす時間の方が、馴染み深かった。
台所には、もう懐かしいにおいが漂っていた。テーブルの上にはノートが数冊、重ねられて置いてあった。
母は座るなりノートを一冊差し出した。表紙は少し色褪せ、角が丸くなっている。手書きの文字が几帳面に並び、余白には「甘さ控えめでも満足感あり」「オーブンは予熱長めに」といった走り書きが添えられていた。
蒼は、ちょっと気になっていたことを聞いてみた。
「母さんって、なんでお菓子作り始めたの?」
母は少し考えてから、笑った。
「お父さんが甘いもの好きだったからよ」
「え?」
「結婚した頃、お父さんが甘いもの好きなのを知ってね。でも、毎日市販のお菓子を食べるのもどうかなって思って。体のことも気になったから、なるべく砂糖を控えたり、材料を工夫したりして、自分で作るようになったの」
母は懐かしそうにページをめくった。
「あの人、あんまり何も言わないでしょう。でもお菓子食べる時だけは、ちょっと嬉しそうな顔するのよ。珍しく『これは美味い』なんて言ってくれるものだから、私も嬉しくなって、調子に乗ってどんどん作るようになっちゃって」
初耳だった。口数も少ない、何を考えているのかよくわからない——そんな父の像しかなかった蒼にとって、父はいつも少し遠い存在だった。
そして、蒼自身も父にはあまり自分のことを話さなかった。
「お父さんに蒼が手伝ったお菓子よって言うと、いつもよりずっと美味しいなって喜んで食べてたのよ。知らなかったでしょう」
母はふふ、と笑ってお茶を注いだ。湯気の向こうで、少し楽しげな顔をしている。
「蒼はお菓子作りの才能あるな、パティシエになればいいのにって言ってたこともあったのよ、親バカよね」
蒼は湯呑みを持つ手を止めた。ずっと、父は自分のことを頼りない子だと思っている気がしていた。男の子なのにお菓子作りなんて、と呆れられている——そう思い込んでいた。
「蒼は、小さい頃から優しくておとなしい子だったでしょう。お父さんね、自分もあまり要領がよくないところがあったから心配だったのよ。学校とか、社会に出てから、大人しいままだと誰かに踏みつけられやしないかって」
その言葉に、蒼は黙って母の顔を見た。
「不器用だから、うまく言えなかっただけ。余計なことも言わないけど、大事なことも言わない人だから。そういうところ、あなたたち親子そっくりよね」
母はそう言って、また笑った。蒼は何も答えられなかった。ただ、胸の奥で何かがゆっくりとほどけていくのを感じていた。
言われてみれば、自分も同じだった。
大切なことほど、言葉にしない。
弱くて男らしくないと思われている——そう決めつけていたのは、もしかしたら自分の方だったのかもしれない。
蒼も、少し笑った。
夕方、玄関の音がした。父が帰ってきた。
「おう、蒼、泊まっていくのか」
「うん」
「そうか」
それだけの短い会話だけど、父はどこか嬉しそうだった。
夕食は、母が用意した野菜たっぷりの鍋を囲みながら、
「お前も、もう飲めるんだったな」とグラスにビールを注ぎ
「飲むか?」と蒼に差し出した。
その一言に、蒼は小さくうなずいた。
話しているのはほとんど母だった。仕事はどうか、ちゃんと食べているのか、と蒼の近況をひとしきり質問攻めにしたかと思うと、テレビで見た話題、蒼の子どもの頃の失敗談まで、途切れることなく続く母のトークに、父はうんうんと頷きながら鍋をつつく。蒼が口を挟む隙もないくらいだった。相槌を打つのが父の役目で、父はあまり多くを語らないのは、母がおしゃべりだからなのでは? なんだか、隣に座る父の横顔が、これまでよりずっと近くに感じられた。
夜、自分の部屋で古いノートを開く。母の丁寧な文字の隙間に、蒼が知らなかった家族の時間が詰まっていた。

