皇の時代の日々〜日常に広がる光と響き(第2話)決めたら動く

共鳴小説
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翌朝。

蒼が身支度を終えてリビングに降りると、母が段ボール箱に何かを詰めているところだった。

「これ、蒼が使っていいよ」

「……何?」

「お菓子作りの道具。蒼にあげる」

箱の中には、泡立て器やゴムベラ、ケーキ型、計量カップ、どれも見覚えのある道具だった。

「え、でも……」

「もう、そんなに作らなくなったから。最近、お父さんのお腹周りが気になるし」母は笑いながら言った。「ちょうどよかったのよ」

「はは……」

「だから、これからは蒼が使ってよ」

道具のひとつを手に取ると、木の柄がしっとりと手になじんだ。子どもの頃、母の隣に立って使っていたものだ。懐かしさが、じんわりと込み上げてくる。

「ありがたいけど、これ、持って帰るの大変だよ」

「じゃあ、お父さんに送ってもらえばいいじゃない」

「え?」

そのとき、新聞を読んでいた父が顔を上げた。

「車で送るぞ」

蒼は一瞬、言葉に詰まった。
父と二人きりの車。そう思うと、少しだけ緊張する。

「……じゃあ、お願いしようかな」
「おう」
短い返事だった。

車に段ボールを積み込み、助手席に座る。エンジンがかかり、家の前の道をゆっくり走り出した。

しばらく二人とも黙っていた。

ラジオから流れる音楽だけが車内に響いている。

蒼は窓の外を眺めながら、何か話したほうがいいのかな、と考えていた。何を話せばいいのか分からない。でも、思っていたより気まずくなかった。

「お父さんは、お母さんが作ったお菓子で何が好きだったの?」

思い切って聞いてみると、父は少し考えるように前を見たまま答えた。

「チーズケーキ」

「あぁ、」

「ガトーショコラも好きだったな」

「へえ」

「人参のケーキも美味かった」

「うん」

それからと、父は、ぽつり、ぽつりとお菓子の名前を挙げ始めた。

「かぼちゃのケーキもあっただろ」

「うん」

「スイートポテトも」

「・・・」

「プリンも美味かったな」

次々に出てくる名前に、蒼は思わず笑ってしまった。

信号待ちの静けさの中、父がふと聞いた。

「でも、なんでまたお菓子なんだ?」

一瞬、迷った。
今までだったら、きっと「なんとなく」と答えていた。

けれど、今日は話してみることにした。

「……この前、久しぶりに作ったんだ」

蒼は少しずつ話し始めた。お世話になった人に、お礼をしたくてチーズケーキを作ったこと。それを渡したら、とても喜んでもらえたこと。
その人から、知人にお菓子作りを教えてもらえないかと頼まれたこと。
そして、自分でも久しぶりに作ってみたら、お菓子を作ることがやっぱり楽しかったこと。

「それで……」

蒼は少し照れながら続けた。

「お菓子を作ってるところを動画に撮って、YouTubeに載せてみようかなって」

父は黙って聞いていた。

そして、「なるほど」と、静かに頷いた。

「YouTubeとか、得意だったのか?」

「ううん。初めてだよ」

「そうか」

それ以上、父は何も言わなかった。

蒼も、それでよかった。

昔なら、この沈黙が苦手だった。
何を考えているのか分からなくて、不安になった。
でも今は、少し違って感じられる。父は、ちゃんと聞いてくれている。
それだけで十分だった。

やがて車は蒼の住むマンションに着いた。

父がトランクを開ける。段ボールを降ろしていると、父が突然、ポケットから財布を取り出した。

「ほら」

「……何?」

差し出されたのは、一万円札が五枚。

「え?」

蒼は目を丸くした。

「ちょっと待って。これ……」

「カメラ、買うんだろ?」

「いや、でも……」

確かに、蒼も心のどこかでは、動画を撮るためのカメラを買ったほうがいいのかもしれないと思った。だけど、今は手が出ない金額だとあきらめて、まずはスマートフォンで撮ればいいと考えていたのだ。

「こんなの、もらえないよ」

「俺もよく分からないけど、会社の若いやつがYouTube用のカメラを買ったとか言ってたから」

父は少し目をそらして、照れくさそうに言った。

「少しは足しになるだろ」

蒼は手の中のお金を見つめた。

「え……本当にいいの?」

父は少し黙ってから、

「たまに作ったお菓子を持って、遊びに来てくれ」

そして、

「俺も食べたいから」

と笑った。

蒼は何も言えなかった。
胸の奥が、じんと熱くなった。父は昔から、こういう人だったのかもしれない。言葉にしない。けれど、言葉の代わりに、こうして何かを差し出す。

蒼は五万円を握りしめた。

「……うん、ありがとう」

「おう」

「チーズケーキ、作って持っていくよ」

「母さんも喜ぶな」

父はそう言うと、車に戻った。
蒼は車が見えなくなるまで、その場に立っていた。段ボールの重みと、手の中のお札の重み。どちらも、思っていたよりずっとあたたかかった。

「やる」と決めて動き始めたら、必要なものが、思いがけないところから少しずつ集まってきた。

蒼は、ふとミカの言葉を思い出した。
――きっと自然さんが応援してくれる。

こんなことになるなんて、思ってもいなかった。

自然さんが応援するって、どういうことなんだろう? 何か特別なことが起こるのだろうか? ミカの言葉は、正直よく分からなかった。

ただ、不思議なくらい、いろいろなことがつながっていった。そして、ちょうどよく自分の手の中に収まっていくような感じだった。

誰かに無理を言ったわけでもない。
それなのに、気づけば、自分だけでは用意できなかったものが、こんなにも目の前に揃っている。蒼は、もう一度、手の中のお札を見た。

応援されるって、こういうことなのかもしれない、と少しだけ思った。

蒼は段ボールを抱え直した。
新しい時間が、静かに動き始めていた。

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