皇の時代の日々〜日常に広がる光と響き(第3話)はじめの一歩

共鳴小説
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父から受け取った五万円は、財布には入れず机の引き出しにしまった。引き出しを開けるたびに、あの時の車内の光景が浮かんで、蒼は少し落ち着かない気持ちになった。

結局、カメラを買いに行ったのは、それから数日後のことだった。家電量販店の店員に「動画用に」と伝えると、思ったよりコンパクトな機材を勧められた。値札を見て少し迷ったが、父の顔が浮かんで、迷いは静かに消えた。

家に戻り、カメラの箱を開けて電源を入れた瞬間、蒼は思わず口元がゆるんだ。小さな液晶に映る自分の部屋が、なんだか少し特別なものに見える。ずっと欲しかったわけではないのに、手にしてみると子どものように心が弾んだ。

土曜の朝、キッチンに三脚を立てる。角度を変えては覗き込み、また変える。何度やっても、画面の中の自分がぎこちなく見えた。

材料を並べる。母のノートを開く。見慣れたはずの手順が、レンズを向けられただけで、急によそよそしいものに感じられる。

粉をふるいながら話してみると、途中で言葉に詰まり、カメラを止めた。もう一度回してみると、今度は声が小さすぎた気がして、また止める。苦笑しながら、蒼は手を止める。窓の外では、隣家の風鈴が小さく揺れていた。

うまく話そうとしなくていい。そう思い直すと、肩の力がふっと抜けた。喋るのが難しいところは無理に言葉にせず、黙って手を動かす。説明は、後で字幕をつければいい。それより今は、焼き上がったケーキを食べる瞬間を思い浮かべながら、楽しく作ることだけを考えよう。

そう決めてしまうと、カメラの存在はいつのまにか気にならなくなっていた。生地を混ぜる手つきも、型に流し込む瞬間も、いつも通り自然に体が動く。子どもの頃、母の隣でこの作業をしていた感覚が、ふっと蘇ってくる。この道具も、実家から譲ってもらったものだ。

焼き上がったチーズケーキは、いつもより少し焼き色が濃かった。それでも、蒼は満足だった。

粗熱が取れるのを待って、一切れ、皿に取り分ける。
口に運ぶと、甘さの奥に、どこか懐かしい味がした。母が長年作り続けてきた味と、自分が付け加えた何かが、混ざり合っているような気がする。

ふと、父の顔が浮かんだ。「たまに、作ったお菓子持って遊びに来てくれ」と笑っていた横顔。そして、お金を差し出したときの、少し照れたような仕草。あの日の五万円がなければ、撮影にはもっと試行錯誤していたかもしれない。

もとをたどれば、すべてはミカが渡してくれたZINEから始まっていた。

「皇の時代は、好きなことを、楽しく、楽に生きること」

努力や比較を手放して、そこでは、誰もが自分のリズムで呼吸し、穏やかに笑って暮らしている。そんな世界が本当にあるのなら、自分もその中で生きてみたいと思った。

──好きなことを、楽しく、楽に。

そして、あのとき何気なく背中を押してくれたミカの言葉がなければ、自分は今も、以前と同じように目的などなく過ごしていただろう。まさか、両親の思いがけない応援まで受け取ることになるとは、思ってもみなかった。

編集は、思っていたよりずっと時間がかかった。無言のまま作業している部分には、あとから字幕をつけた。見よう見まねで不要な部分を切り、何度も再生しては直す。気づけば、外はすっかり暗くなっていた。

投稿ボタンの上で、指が少し止まる。誰かに見られる、ということが、急に現実味を帯びてくる。

けれど、あのときミカに「やってみようかな」と言った自分を思い出した。決めたことは、もう動き出している。記録として残しておくためと思って始めることにしたけれど、もしこの動画が、誰か一人の役に立つなら、それはそれで悪くない気がした。

指を、そっと下ろした。
画面が切り替わる。投稿完了、という文字が、静かに表示された。

蒼はしばらくその画面を眺めていたが、思い出したようにミカにメッセージを送った。「動画、アップしてみました」。短い文章の後に、URLだけを貼り付けた。送信してすぐ、少し照れくさくなって、スマートフォンを裏返した。

ケーキの残りは、明日実家に持っていこう。そう思いながら、蒼は窓の外の暗がりに目をやった。風鈴の音が、まだかすかに聞こえていた。

スマートフォンが小さく震えたのは、そろそろ寝ようかと思っていた頃だった。

ミカからだった。「すごい!動画見たよ!」という言葉のあとに「尚子さんにも伝えたら、さっそく『作ってみます』と返事が来ました」と続いている。「私もケーキ作りたい・・・いや、食べたい!!」と、笑いを含んだミカっぽい一文が追加されていた。

蒼は思わず口元が緩んだ。投稿したものが、もう二人の元に届いている。それだけで、胸のあたりがじんわり温かくなった。

もう一度画面を確認すると、チャンネル登録の通知が二件届いていた。ミカと、尚子だろう。蒼はしばらくその数字を眺めていた。大きな数字ではない。それでも、知っている二人の名前がそこにあるというだけで、安堵が広がっていく。

誰かに見られることへの怖さは、まだ消えたわけではなかった。それでも今は、その怖さより先に、小さな嬉しさの方が勝っていた。

 

皇の時代の日々『日常に広がる光と響き』⑦蒼、風を感じる 

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