2025年11月から12月にかけて、私の内側にははっきりとした緊迫感が立ち上がっていました。「今、方向を定めないと、新しい時代に進めなくなるのではないか」そんな感覚と焦り。
新しい時代の到来、扉の向こうに、未知の世界が広がっていることは、多くの人がどこかで察している様子がありました。けれど同時に、まだこちら側に留まっていたい気配も、確かに存在していました。
そもそも「祖」や「皇」という言葉自体に、興味もなく、知る機会もなく、天縄文理論に辿り着かない人の方が圧倒的に多いのです。
これからの時代、祖のままでは淘汰されていく──そう言われていますが、知らないままに「祖」を生きる選択をする人がいても、それはそれでいいのだと思います。
祖の人間だから、皇の時代では落ちていくしかない、というわけでもなく、祖の魂であっても、皇の魂であっても、皇の時代のルールに合わせて生きれば、自然は等しく応援してくれます。逆に言えば、皇の魂の人間であっても、ルールを外れれば自然は容赦ありません。だから、少しでも皇の時代や、そのルールを伝えたいと思っていました。その動機の多くは、身近な人たちへの思いから来ていたように思います。
冬至はやはり、大きな区切りのタイミングでしたね。
祖の世界か、皇の世界か? どちらの世界に生きるのか?
その選択は、言葉や宣言で決まるものではありませんでした。
「愛の世界がいい」「豊かな世界がいい」と口にしていたとしても、
実際に振り分けられるのは、その人の本音本心のあり方だったと思いました。
観測している限り、変化を選ばなかった人が、思いのほか多いという感覚です。
それも当然で、皇の時代へ向かう道は、まだほとんど踏み固められていません。知らない道は、不安で、心配で、一歩を踏み出すには勇気が必要です。変化には、どうしてもストレスが伴います。「楽な方を選べ」という言葉も、確かにありました。
人は、同じ景色を見ながら同じ場所を回り続ける方が、楽で、安心。けれどそれは、変わらないことを選ぶ、という意味ではなかったように感じています。
「みんながまだここにいるから」
「間違えた選択をしたくないから」
そうして進路変更を先延ばしにすることは、
結果として、今までと同じ場所に留まるという選択になったのです。
これは誰かを裁くための話ではありません。
ただ、冬至という通過点で観測された、世界と人の動きについての記録です。
最近、発信そのものに対して、迷いのような感覚が立ち上がっています。何を書くべきか、というより、「発信」という行為が、これまでと同じ意味を持たなくなってきたのです。
これまでは、伝えたいことがあり、わかってほしいことがあり、
少しでも届けばいいと思って言葉を差し出してきました。
けれど今は、説明しようとするほど、何かがズレていく感じがあり、
理解を求めるほど、距離が生まれるような感覚もあります。
発信をやめたいわけではないのですが、もう祖の世界に向けて橋をかける必要はないのかもしれないと思うのです。
2025年の冬至以降、祖の世界と皇の世界が、はっきり分かれた感覚があります。
発信の形が変わるのか、
頻度が減るのか、
あるいは、ただ静かになるのか。
それはまだわかりません。
ただ、今は「届けるために書く」よりも、
「観えていることを記録する」ほうが、自然に感じられています。
今日はそれを、ここに置いておこうと思いました。
