― 弥生 ―
昼休み、オフィスの窓際でコーヒーを飲んでいたときだった。
新人の蒼が、白い箱を抱えてミカのもとへ向かっていくのが見えた。
「これ、この間のお礼……自分で焼いたんです」そんな声が聞こえた気がした。
ふたりとも柔らかく笑っていて、光がそこだけ違う色をしているように見えた。まるで職場の一角だけ、別の空気を吸っているみたいだった。ふたりの空気があまりにもやわらかくて、その中に自分の居場所はないように思えた。
「……会社にそんなもの持ってきて、遊び場じゃないのよ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
蒼が一瞬、困ったように頭を下げる。
ミカは、悪びれる様子もなくただ静かに
「すみません」と言った。
その様子がまた、気に入らなかった。
自分でも、なぜそんな言葉を口にしてしまったのかわからない。弥生の胸の中で、何かがざらざらと音を立てた。
どうして、あの子はあんなに気負わず、自然に堂々といられるんだろう。
私は、ずっと頑張って自分をつくってきてた。
上司に認められるように、部下に嫌われないように、空気を読んで、我慢もした。
そうやって自分を削って合わせてきたのに、
まるで、人の目なんか気にしなくてもいいみたいな顔をされると、自分の全部が否定されたような気がする。
「きっと、ああいうタイプは要領がいいだけ。」
でも、そう思えば思うほど、胸の奥で何かがざわついた。
私は正しいと思って努力してきた。
ちゃんと認められてきた。
けれど最近は評価されても、成果を上げても、喜びが続かない。
あの子が無邪気に笑っているのを見るたび、自分の影が濃くなる。
羨ましい?悔しい?……そんなの、認めたくないのに。
あの子は退職するんだから、せいせいするわ。
席に戻っても、胸の中の棘は抜けなかった。
弥生の視線の先では、窓辺のカーテンがゆっくり揺れていた。
秋の風が、ほんの少しだけ冷たくなっている。
― 蒼 ―
夜。
ミカからメッセージが届いた。
ミカ:ケーキ、本当に最高おいしいよ!ありがとう!!
あの優しい甘さ、蒼くんの素直さが伝わってきた。
自分の好きを思い出して、すぐ行動できるって、すごいよ!
その文字を見た瞬間、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
ああ、こんなふうにまっすぐに受け取ってくれる人がいるんだ。
けれどその直後、昼間の光景が頭をよぎる。
――弥生さんの冷たい視線、言葉。
「会社にそんなもの持ってきて、遊び場じゃないのよ。」
声に刺のような響きが混じっていた。
白い箱が、急に重く感じられた。
ミカさんは責めるでも、怯えるでもなく静かな声で「すみません」とだけ言った。
そして、僕に目配せするようにいたずらっ子みたいな視線を投げかけて
ニッコリ笑ったんだ。
その瞬間、僕は気づいた。
弥生さんの言葉が弾き返されていく空気の層のようなものが存在していることに。ミカさんはもう、怒りや競争や評価、そういう波とは別のところで生きている。
席に戻っていった弥生さんの背中が少しだけ、疲れて見えた。
もう一度ミカのメッセージを読み返す。
その言葉の中には、説得も、否定もない。
ただ、受け取ることを喜んでいる無垢な光だけがあった。
――ああ、この人は、戦っていない。
誰かを正そうとも、変えようともしていない。
ただ、自分の心を大切にして、そこから光を広げている。
弥生さんの言葉も、きっと防衛だったのだろう。
祖の時代のルールで、一生懸命に「正しく」あろうとしている。
そして、自分もまたそのルールの中で生きてきた。
でも、もう戻らなくていい。
その小さな一歩を、今日、自分は踏み出せたのだから。
ミカの見ている世界を、
自分も、もう少しだけ近くで感じてみたいと思った。
世界は少しずつ、静かに変わっていく。
争いではなく、共鳴によって。

