週末の朝、蒼はゆっくりと目を覚ました。
窓の外にはやわらかな光。カーテン越しの風が、手帳のページをめくっていく。
そこには、「好きなこと」「やってみたいこと」と並んだ文字の中に、小さく「お菓子を作る」とあった。
書いたときは何となく思いつきで書いたものの、なぜか心に残っていた。
蒼は立ち上がり、キッチンの戸棚を開けた。
小麦粉、卵、バター、それらを並べた瞬間、遠い記憶がよみがえる。
――そういえば、俺、小学生のころ、母親と一緒にお菓子をよく作ってたな。オーブンから香る甘い匂いに包まれながら、母が「いい香りね」と笑っていた記憶。
オーブンの中で生地がふくらんでいくのを、わくわくしながら覗き込んでいた。
甘い香りが部屋いっぱいに広がるあの時間が、ただ楽しくて仕方なかった。
「……あの頃の自分もこんな顔してたのかな」
思わず笑いがこぼれる。
小麦粉をふるいにかけ、バターを練り、卵を割る。
指先の感触、溶けていく砂糖の輝き。
どれも懐かしく、どれも心地よかった。
「男のくせに」と言われたらどうしよう、そんな考えが一瞬浮かんだが、それよりも今はただ、この手の中で起きている小さな奇跡を楽しみたかった。
オーブンから立ちのぼる甘い匂いに、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
焼き上がったケーキの表面は少しひび割れていたが、それもまた愛おしかった。形は不格好でも、心が満ちていた。蒼は少し笑った。
「ミカさん、喜んでくれるかな。」
そう呟いた自分の声が、やけに自然に響いた。
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昼休み、蒼は白い箱を抱えてミカのもとへ向かった。
「これ、この間のZINEのお礼も兼ねて……自分で焼いたんです」
少し照れくさそうに言うと、ミカの目がまるくなった。
「えっ、蒼くんが? すごい! ありがとう!」
笑顔がぱっと花のように咲く。
その瞬間、蒼の心の奥で、何かが柔らかく解けた。
蒼は目を逸らして続けた。
「ほんとは甘いものが大好きなんです。子どもの頃、母と一緒にお菓子を作るのが楽しくて。でもいつの間にか、男だからって自分でやめてたみたいで……」
ミカは優しくうなずいた。
「いいね、蒼くん。」
ミカは箱を両手で受け取りながら言った。
「そうやって、自分を大切にできる人が増えると、きっと世界がやわらかくなるね。」
その言葉が、蒼の胸の奥に、静かに降りていった。
ふと、風の通り道のような感覚を胸に覚えた。
祖の時代の空気が薄れていく。
やらなきゃから、やってみたいへ──
その小さな変化が、確かに自分の中で始まっていた。
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夜。
ミカは帰宅してから、あたたかいお茶を淹れ、テーブルの上のチーズケーキを見つめた。
ひとくち口に運ぶと、やさしい甘さが広がる。
思わず笑みがこぼれ、スマートフォンを手に取った。
アイとユウとのグループチャットにメッセージを送る。
ミカ:今日ね、蒼くんからケーキもらったの🍰
この前ZINEを渡した子。
子どもの頃にお菓子作りが好きだったの思い出して、久しぶりに作ってみたって自分で焼いたって言ってた。
それが、すごく嬉しくて。
すぐにアイから返信が届く。
アイ:わあ、それはステキだね。
「自分の好きを思い出す」って、皇の時代の第一歩だから🌱
そしてユウが続けた。
ユウ:共鳴が始まってるね。
蒼くん、きっと風に導かれて、いずれここに来るよ🌈
ミカは画面を見つめながら、静かにうなずいた。
チーズケーキの甘い香りが部屋いっぱいに広がっていく。
その香りはまるで、誰かの心にそっと触れるはじまりの風のようだった。
ミカはスマートフォンを手に取り、蒼にメッセージを送った。
ミカ:ケーキ、本当に最高おいしいよ!ありがとう!!
あの優しい甘さ、蒼くんの素直さが伝わってきた。
自分の好きを思い出して、すぐ行動できるって、すごいよ!
少し間をおいて、蒼から返信が届く。
蒼:ありがとうございます。ケーキを作ってる間、
なんだか、久しぶりに自分に遠慮なく楽しい時間でした。
ミカは画面を見つめながら、静かに微笑んだ。
あなたが見つけたその小さな好きが、世界に新しい物語を加えたみたい――ありがとう、蒼くん。
その物語は、静かな波紋となって広がって、次のやさしい循環を生み出していく。

