銀河のリズム、地上の鼓動 ―魂職に出会うまで⑩ はじまりのささやき―尚子の目線
夕日が窓辺を橙色に染める頃、台所で包丁を握る尚子の手が、リズミカルに野菜を刻んでいく。尚子の耳に、玄関の鍵が回る音が響いた。
尚子はいつものように玄関へ向かう。
「お疲れさま、今日は早いのね」
健一は靴を脱ぎながら、疲れ切った表情で軽く頷いた。いつものスーツ姿が、今日はいつもより重そうに見える。
「ああ、会議が早く終わって」
短い返事とともに、健一は尚子の横を素通りして奥へと向かった。その後ろ姿を見送りながら、尚子は玄関に残された靴を揃える。きちんと並んだ靴を見下ろしながら、何かを言いたかったような気がしたが、結局、言葉は出てこなかった。
着替えを済ませた健一が、遠慮がちに台所の入り口に現れた。
「手伝おうか?」
振り返った尚子は、反射的に首を横に振る。
「大丈夫、もうできるから」
「そうか」
健一の短い返事が、タマネギを刻む音に混じって消えていく。尚子は包丁を止めて振り返ったが、健一はもうその場にいなかった。台所の入り口には、何かを言いたそうだった夫の表情だけが、残像のように焼き付いている。
手を止めて考える。本当は手伝ってもらえたら嬉しいのに、なぜいつも断ってしまうのか。いつからこんなふうになったのだろう。夫には余計な心配はさせたくないと気遣うつもりが、いつの間にかお互いの気持ちまで遠ざけてしまっている。そんな自分に気づきながらも、「手伝って」とは言えない尚子がいた。
包丁を握り直して、尚子は再び野菜を刻み始めた。
つむぎは小さくなって、もくもくとご飯を口に運ぶ。箸がお皿に触れる音だけが、やけに大きく響く。
静寂が食卓を包んでいた。
つむぎが学校に行かなくなってから、つむぎの口数は減った。小学生の頃は学校での出来事をあれこれと夕食時に話す子どもだった。健一も楽しそうにつむぎの話しを聞いていた。
今は、健一からつむぎに何か言うこともない。
尚子は沈黙の重さを感じながらも、どうすればいいのかわからずにいた。
つむぎの寝息が安らかに響く子供部屋を後にして、尚子は台所で食器を洗っていた。お皿に当たる水の音が、静かな夜に響く。
居間から漏れる薄明かりの中で、健一がスマホを見ている背中が見える。少し猫背になった肩のラインが、疲れを物語っていた。
「私がしっかりしなくちゃ」
いつも心の中で繰り返している言葉。家族を守るため、夫を気遣うため、娘をきちんと育てるため。そう思って頑張ってきたはずなのに、いつの間にか夫とつむぎの間にも壁ができてしまっていた。
食器を拭く手を止めて、尚子は深いため息をついた。胸の奥が重い。本当はもっと自然に、もっとあたたかい家庭にしたいのに。どこで道を間違えたのだろう。
夕食の片付けを終えた尚子は、響環ZINE Vol.4を手に取った。
「これ…つむぎの絵が載ったの」
居間でスマホを見ていた健一が振り返る。
尚子は控えめにZINEを健一の前に置いた。健一は驚いたように身を乗り出し、ページをめくる。
「本当に?つむぎが描いたのか、これ」
木の下で安らかに座る人物を描いた絵を見て、健一の表情が柔らかくなった。
「つむぎ、すごいじゃないか。こんなに上手に描けるなんて知らなかった」
尚子は夫のこんな表情を久しぶりに見た気がした。いつもは疲れて帰ってきて、必要最低限の会話しかしない健一が、本当に嬉しそうにつむぎの作品を見つめている。
「ひびきの輪っていうところに参加したときに描いたの」
「そうか…つむぎ、楽しかったんだな」
健一はもう一度絵を見て、「この絵、なんだか見てるだけで心が落ち着くな」と小さくつぶやいた。
響環ZINE vol.4
「祖の時代の終焉に皇の感性で生きる」響環ZINE vol.4 ①祖の時代の構造と終焉のサイン