皇のルールは、ゆっくり、のんびり
何も特別なことは起こらなかった一日。つむぎは朝からずっと自分の部屋で絵を描いていて、昼食の時に少し話をしたけど、学校のことや、将来のことは、何も話さなかった。
夕食の片付けで慌ただしくしていると、リビングでぼんやりしていたつむぎが突然、「お母さん、今日はいい一日だったね」 と言ったのだ。
つむぎの表情は穏やかで、心から満足しているように見えた。
そう言い残すとつむぎは「もう寝るね」と行ってしまった。
つむぎが学校に行かなくなって、もうすぐ半年になる。最初の頃は、毎朝が戦場だった。「今日は行ける?」「体調はどう?」「担任の先生が心配してるよ」――そんな言葉を投げかけては、つむぎの表情が曇るのを見て、自分も沈んでいく日々。
友人たちからは「カウンセリングを受けてみたら?」「転校も考えた方がいいんじゃない?」「うちの子の時は…」と、善意のアドバイスが次々と寄せられた。どれも的確で、どれも親身で、どれも――つむぎには当てはまらないような気がした。
(わたしは、つむぎに学校へ行ってほしいので悩んでいる)
その想いを、初めて言葉にしてみた。声に出すと、妙にぺらぺらと軽い響きだった。
――でも、本当にそうなのだろうか。
キッチンに立ち、水を一杯飲む。キッチンの窓から薄い月の明かりが見えた。
”ひびきの輪”で「魂職って…生まれたときから決まってる、みたいなものなんですか?」
とつむぎが小さな声で尋ねたことを思い出す。
「人にはそれぞれ、自分にしかできない役割があって、その役割は魂の記録の中に書き込まれている」とアイさんが話してくれた「魂職」のこと。
尚子の心に小さな違和感が生まれた。 (もしそうだとしたら、つむぎが学校に行かないのは…)
違和感は、やがて一つの問いになった。 (わたしは、つむぎの魂の声を聞こうとしていたのだろうか)
学校に行くことが当たり前だと思っていた。社会に適応することが大切だと信じていた。つむぎのためを思ってのことだった。
でも、つむぎの表情を思い返してみると、学校の話をする時だけ、何かが曇っていた。まるで、自分の中の大切な何かを隠さなければならないような。
(わたしは、つむぎを学校という枠にはめ込もうとしていたわけではない。でも、結果的に…)
尚子は、そっと階段を上がり、つむぎの部屋の前を通りかかった。ドアの隙間から、規則正しい寝息が聞こえる。平和な寝息だった。
朝の光、新しい一日
朝、尚子は起き上がり、いつものように、朝食の準備をしなければと思ったが、手が止まった。
(わたしは、なぜそんなに急いでいるのだろう)
昨夜のつむぎの言葉が、また響いた。 「お母さん、今日はいい一日だったね」
(つむぎにとって、いい一日って何だろう)
学校に行った日ではなく、友達とたくさん遊んだ日でもなく、何か特別な体験をした日でもなく――ただ、自分のペースで、自分のやりたいことをして過ごした日。
それが、つむぎにとって「いい一日」だった。
尚子の胸に、静かな気づきが降りてきた。
(わたしは、つむぎの幸せを、わたしの基準で測ろうとしていた)
ベットから出て、リビングに行き、ソファに座る。部屋の景色が、いつもと違って見えた。同じ風景なのに、何かが変わって見える。
(つむぎは、もう答えを持っているのかもしれない)
自分にしかできない役割。魂の記録に書き込まれた職業。
つむぎが絵を描いている時の集中力。「ひびきの輪」で見せた、心から安らいだ笑顔。
(つむぎは、つむぎの道を歩もうとしているのかもしれない)
そして、もう一つの気づきが生まれた。
(では、わたしは?わたしの魂職って何だろう)
つむぎを学校に行かせることに必死になっていた時間。友人たちのアドバイスに一喜一憂していた日々。カウンセラーや先生との面談で、何とか「解決策」を見つけようとしていた努力。
それらは全て、外側から借りてきた答えだった。
(わたしは、わたし自身の声を聞いていただろうか)
朝の静寂の中で、尚子は初めて、自分の内側に耳を傾けてみた。
すると、小さなささやきが聞こえてきた。
――つむぎを信じてあげて。
それは、誰の声でもなく、でも確かに聞こえる声だった。
――あなたも、あなた自身を信じて。
尚子の目に、涙がにじんだ。それは悲しみの涙ではなく、何かがほどけていく安堵の涙だった。
(わたしは、つむぎに学校へ行ってほしいのではなかった。つむぎに、幸せになってほしかったのだ)
そして、つむぎはもう、自分なりの幸せを見つけ始めているのかもしれない。
階段から、軽やかな足音が聞こえてきた。つむぎが起きてきたようだ。
「おはよう、お母さん」
振り返ると、つむぎが朝の光を背負って立っていた。寝起きなのに、その表情は清々しく、何かを決めたような強さがあった。
「おはよう、つむぎ」
尚子は、いつもより柔らかい声で答えた。
「今日も、いい一日にしようね」
つむぎが、ほころぶように笑った。そのとき尚子は気づいた。この笑顔こそが、自分が本当に見たかったものだということに。
学校に行く、行かないということではなく。 つむぎが、つむぎらしく生きていること。 それを、心から応援できる自分でいること。
朝の光の中で、親子の新しい一日が静かに始まった。